日本には各地に焼物の産地が東北から九州まで点在していて各産地の窯では個性的な陶磁器が作られています。茶器もその一つでご使用になる急須や湯飲みによっては味も雰囲気も変わってきますね。シチュエーションやその時の気持ちに合わせてお好みの茶器でゆったりした時間とおいしいお茶をお召し上がり下さい。主な焼物の産地をご紹介させていただきます。
【相馬焼】
福島県浪江町で作られる焼物です。慶安年間(1648〜1652)に野々村仁清のもとで学んだ田代源吾右衛門(のち清治右衛門)が創始だと言われています。この地の走馬を描いたもので、駒焼とも言われます。特に浪江町の大堀地区で生産される大堀相馬焼きは、昭和53年に国の伝統工芸品に指定されています。特徴として「青ひび」「走り馬」「二重焼き」の3つが挙げられます。その特徴は素朴さの中に優しさがあり、一度見たら忘れることが出来ないほどの個性を持って表現されています。「青ひび」という貫入(かんにゅうと読みます。釉と素地の収縮率の差により、焼成後の冷却時に生じた釉のヒビのことでキズではありません)と馬の絵の模様と二重焼(二重構造になっている)が特徴です。
【益子焼】
栃木県益子町で作られている焼物です。益子焼は江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まると言われます。以来、優れた陶土を産出すること、大市場東京に近いことから、鉢、水がめ、土瓶など日用の道具の産地として発展をとげます。1924年、濱田庄司がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らと共に民芸運動を推めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は「芸術品」としての側面出てきました。黒、柿、灰色など渋い色の釉薬を使用してシンプルなデザインで肉厚でぼってりした重量感がある地味な作風が特徴です。
【九谷焼】
九谷焼は、今からおよそ340年前、現在の石川県加賀市(旧・山中町)の山あい、草深い九谷の里で生まれました。北西に日本海、東南に霊峰白山をひかえたおおらかな自然を母とし、絢爛たる加賀百万石文化を磁器に託した九谷焼は、やがて、冬の期間を深い雪に閉ざされる風土に逆らうように、多彩で大胆な上絵付を特徴とする重厚な焼物へと変貌したのです。九谷焼調という緑釉、黄釉の鮮やかな柄と色彩が特徴です。
【瀬戸焼】
焼き物全般のことを「せともの」と云いますが日本の陶磁器の代名詞ともなっているのが、愛知県瀬戸市で焼かれる瀬戸焼です。昔から、瀬戸市一帯は窯業が盛んな地域であったようで、瀬戸という地名も「陶都(すえと)」から転じて「せと」になったとも言われています。現在でもこの辺りは日本の陶器を代表する一大窯業地帯となっています。しかしながら、これほどにまで有名な瀬戸焼ですが、現在の瀬戸焼では茶器の生産が盛んで、すが特徴があまりないのが実際のようです。瀬戸焼の代表である磁器は、19世紀の初め頃、磁祖と呼ばれる加藤民吉(かとうたみきち)によって創始されたものです。
【常滑焼】
愛知県常滑市を中心に作られる焼物です。原料に含まれている鉄分を赤く発色させるのが特徴となっています。釉薬を使用せず土肌を生かした製品、釉薬(ゆうやく)を施した製品等々の色々な製品が揃っています。 鉄分を多く含む陶土を、釉薬をかけずに堅く焼き締めたオレンジ色の朱泥(しゅでい)の急須は、常滑焼を代表するやきもの。使い込んでいく内に艶が出てきて美しい表面になります。
【萬古焼】
三重県四日市市を中心に作られる焼物です。紫泥急須や土鍋がその代表とされる「萬古焼」。その発祥は江戸時代の中期(1736〜41)、桑名の豪商・沼波弄山(ぬなみろうざん) が鎖国という時代背景の中で外に思いを馳せて作った陶器でありました。後世に受け継がれ永続することを願い、弄山自身が名付けました。焼き方にも形にもとらわれない自由な発想から生まれた焼き物、萬古の印が有ることが万古焼きの由来です。
【信楽焼】
滋賀県信楽町で作られる焼物です。信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、日本六古窯のひとつに数えられている。信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わびさび”の趣を今に伝えている。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。
【清水焼】
清水焼(きよみずやき) は、京都を代表する伝統工芸品のひとつで、もともと清水寺に向かう清水坂界隈の窯元で焼かれていた焼き物を指してそう言っていたのが始まりです。現在では、京都市東山区・山科区の清水焼団地・宇治市の炭山などで生産されているものをまとめて「清水焼」と呼んでいます。ちなみに京焼と清水焼の違いをよく聞かれますが、これは以前(江戸時代ぐらい)は清水焼以外にも、粟田口焼・八坂焼・音羽焼・御菩薩池焼などが京都市内各地にあり、それを総称して「京焼」という言葉が使われていました。しかしその後、時代の流れとともに清水焼だけが残って、現在ではほぼ「京焼=清水焼」という形になっています。京都は古い昔より日本の中心地として全国の焼き物が流入する巨大な市場でした。桃山時代に入ると茶の湯の流行とともに京都市内でも楽焼や様々な茶道具、うつわを作るようになり、茶人や宮家・公家、各地の大名や寺へ献上されるようになりました。そして江戸時代には野々村仁清や尾形乾山、奥田頴川、青木木米といった数々の名工が現れ、京焼・清水焼の地位を不動のものとして今日まで至っています。
【備前焼】
岡山県備前市を中心に作られる焼物です。備前は日本の六古窯といわれている瀬戸・常滑・丹波・越前・信楽・備前のなかでも、もっとも古い窯場と言えます。無釉焼き締めの伝統を守りつづけ、一千年の間、窯の火は絶やしたことがないのが備前焼です。備前では”古きよき伝統”を守り、昔ながらの登り窯、松割り木の燃料を用いて、趣深い備前焼を作っております。うわぐすりをかけないで、良質な陶土をじっくりと焼き締める、このごく自然な、土と炎の出会い、その融合によって生み出される素朴な、そして、手づくりのぬくもりの感じられる焼き物が備前焼なのです。その土味を生かした焼成、姿の美しさ、巧まない作行きによって生み出された枯淡で素朴な味は、日本美の原点であり、時代の風潮とか流行を超越して、多くの人々に愛されてきました。備前焼は鎌倉初期にかけて、その特徴を整え、室町桃山時代の茶道の流行で信楽、南蛮などの焼き物と共に、世に広まりました。それは、茶禅一味の草庵茶の理想と無釉焼き締めの備前焼がぴったりあったのです。
江戸時代、備前藩主池田光政公は、備前焼を保護奨励し、窯元から名工を選び、御細工人として扶持を与えました。細工物といわれる布袋、獅子などの置物や香炉などもこのころから作られるようになり酒徳利、水がめ、すりばち、種つぼなどの実用品も多量に生産されるようになり現在に至っています。
【萩 焼】
山口県萩市を中心に作られる焼物です。萩焼(はぎやき)は山口県萩市一帯で焼かれる陶器。一部長門市・山口市にも窯元がある。長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれる。古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物である。萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」がある。貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることである。素地の色を生かすため、模様は地味だが根強いファンが多く、市内界隈には新規を含め、多数の窯元が存在する。
【砥部焼】
愛媛県砥部町で作られる白磁器の焼物です。一般には、食器、花器等が多い。愛媛県指定無形文化財。別名喧嘩器とも呼ばれる。後背の山地から良質の陶石が産出されていたことから、大洲藩の庇護のもと、発展を遂げた。やや厚手の白磁に、呉須と呼ばれる薄い藍色の手書きの図案が特徴。砥部焼の多くは手作り成形のため、全国的に見ても決して大産地や有名産地ではないが独特の風合いが愛好家に評価されている。
【有田焼】
有田焼(ありたやき)は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。有田焼といえば、白く透きとおるような地肌に、華やかで繊細な絵付けが特徴の陶磁器で有名です。一般家庭食器として、白く美しい磁肌、華やかな絵付、使いやすさ、高い耐久性が有ります。